日本と北米のCS系博士課程の違い

この記事では、東大からトロント大の博士課程へ転学する筆者が見聞きした内容を踏まえて、日本と北米のCS系博士課程を比較しています。

 

 

はじめに

こんにちは!

現在東京大学工学系研究科電気系工学専攻の博士課程3年で、2024年9月からトロント大学コンピュータサイエンス専攻の博士課程へ転学する予定の野間と申します。

yutanoma.com

 

トロント大学には元々、博士課程期間中の短期留学のつもりで2023年6月から8か月間滞在していました。

理論上、東大に戻りD3でそのまま卒業することはできたのですが、トロント大学の環境があまりに自分に合っていて、またありがたいことにオファーをいただけたため、そのままトロントに移って博士課程を継続することにしました。

 

受験や留学の経緯に関しては別記事に譲るとして、この記事では自分が見聞きした限りで感じた日本と北米(アメリカ・カナダ)のコンピュータサイエンス系博士課程の違いを記そうと思います。トロント大学にオファーをいただけるまでは他の大学も検討していたため、2023年秋頃に北米の複数のトップ大学の研究室を巡っており、その時に見聞きしたことも反映しています。

両方の博士課程を経験している人間はレアだと思うので、参考になれば幸いです。特に、海外大学院に挑戦するか、日本の大学院に行くかで悩んでいる方は多いと思いますので、決断の一助になればと思います。

 

一応書いておきますが、私の分野であるコンピュータグラフィックスや北米のトップ校、東大に特有の事情やバイアスが多分に含まれている可能性があります。また科学論文とは違い、主観に基づいた判断が含まれる可能性が大いにあることをご理解いただけますと幸いです。

 

入試

日本と北米の大学院の最大の違いの一つは入試だと思います。

 

日本の大学院、特に東大の場合、選抜は基本的にペーパーテスト面接で行われます。もちろん学科により詳細は異なりますが、例えば私の所属している電気系工学専攻では、以下のような内容の試験が課されます。

(4)専門科目(電気電子工学・情報工学
電気電子工学と情報工学の研究を行うために必要な基礎的な学力を問う内容です。

以下の専門科目の出題範囲から2 問を選択解答します。解答時間は2問合わせて150分です。
 電磁気学、電気回路、情報工学 I、情報工学 II、固体物性、制御・電気エネルギー工学

(5)口述試験

志望分野とその理由のほか、その分野に関する基礎的事項について質問します。また、卒業研究の内容を口頭で紹介してもらうことや、専攻調査票(筆者註:この調査票では大学院で取り組む研究課題や希望する指導教員名を書きます。いわゆるSoPと近いです)および筆記試験答案の内容に関し質問する場合もあります。*1 

この選抜はペーパーテストの点数で比較的厳格に切られることが多く、例えば私の身の回りでも、志望していた研究室への配属がテストの点数が足りずにかなわなかった人が結構います。*2 このような人の中には、学部でトップ会議に論文を通していた人や、学部2~3年など比較的若い段階から研究に取り組んでいた熱心な人もいました*3。ちなみに学科の名誉のためにあえて述べますが、ここ2~3年はこのような不幸な状況を生みづらいシステムへの転換が図られていると思います。

このように、日本、特に東大のシステムは、試験の点数による評価などの公正性や公平性を重視したシステムになっていると感じることが多いです。

 

一方で、北米の博士課程入試では、一般に研究経験業績「強い」推薦状を分野の権威ある教授からもらえているか、また高いGPAがあるかどうかがものを言います。

この文化は、教授がPhD学生を雇うというシステムと深くかかわっていると個人的には考えています。というのも、基本的にプロジェクトをリードしpublishまで導くのは筆頭著者の学生である一方で、論文数は教授の評価に深く影響します。さらに近年、CS系のトップ会議の採択のハードルは上がる一方です。このため、教授からすればなるべく研究能力にお墨付きのある学生を採用したいと考えます。

しかし、このような指標に頼りすぎたシステムは、業績を出しづらい国・大学から学生を採用しづらくなってしまいます。北米のアカデミアでは、多様なバックグラウンドを持つ研究者がいることが研究レベルを高めるとされており、人種やジェンダーなどによる「隠れたバイアス」をいかに選考プロセスから取り除くかが重要視されています*4。こうなってくると、業績やテストの点数といった明確な基準がないため、異なるバックグラウンド(国、大学、学部から直接PhDに行くor修士を経る)の志望者間を公平に判断するのは不可能に近いです。

一方、それでも各大学に共通した哲学があるように感じます。ある教授は、公平な判断が不可能な以上、その志望者が指数関数的な成長が可能かどうかで判断しているとのことでした*5。例え相対的な業績が現時点では少なくとも、候補者が採用後に指数関数的な成長を遂げる兆候を見ることが重要と話していました。

個人的には、CMUの教授が入試について書いたこちらの記事も非常に参考になりました。北米のトップ校の教授がいかに世界中からトップ10%の研究人材を発掘し、育成するかに腐心していることが伝わってきます。

da-data.blogspot.com

結局教授側としても、採用した学生が成果を出さなかったら自分の評価が下がるだけなので、(少なくとも私の知る限りは)実力がないのに縁故主義のみで採用するといったことにはなっていないように思います。

このようなシステムのため、出願した学校全てに通ったという人はレア*6で、現役のPhD学生の多くは1~2校からオファーをもらった中で、最も自分に合う学校に決めていると思います。

一方で救いなのは、トップ校がMITやスタンフォードだけではないということです。分野にもよりますが、これらの学校と同等の研究業績を残している大学は北米じゅうにあります。例えば私の分野であるコンピュータグラフィックスでは、以下のcsrankingsというサイトによればUCSD、トロント*7SFU、NYUなども前述の2校に匹敵する業績を残しています。また、このランキングに入っていなくとも、個人レベルで名の知られた教授がいる大学はたくさんあります

csrankings.org

 

このように、特定の大学に人・モノ・カネが集まりがちな日本と比べ、比較的大学間の力の分散が実現されているのは北米の特徴だと思います。

特に、日本だと「学部~博士まで全て東大/京大」という経歴の人が多い一方で、北米では全ての課程を同じ大学で終えた人は極めて稀です(体感では、全博士号取得者の5%くらい)。これも、大学の力がうまく分散されていることの証左かもしれません。

 

北米大学院受験のタイムラインやTipsに関しての詳細は、別の素晴らしい記事がたくさんあるので、そちらに譲ります。

akaria.hatenablog.com

funaifoundation.jp

 

給与

実際に研究をする段になると、給与のことが気になってくると思います。

東大のみの話になってしまいますが、博士課程学生の2/3が何かしらの経済支援を、さらに半数が月18万円以上の経済支援を受けています*8。もちろん、東京で月18万円の経済支援が十分なのかという話にはなりますが、併用受給が可能な経済支援も多くなってきており、博士学生の給与の平均値や中央値はもっと高いのではないかと個人的には感じています。

このような経済支援のほとんどは、学生が研究計画書等を書いて提出し、審査を経ることで学生に付与されます。博士課程学生が応募できる代表的なものに、以下のようなものがあります*9

  • 学振DC1/DC2
  • JST ACT-X*10
  • 国際卓越大学院(東大のみ)
  • SPRING GX(東大のみ)
  • etc.

多くは月20万円前後の支援が得られますが、組み合わせによっては併用受給が可能です。もちろん審査が必要な都合上、一切経済支援を受けられない学生が出てくる可能性があります。ただ、社会人博士など外部から給与を受け取っている学生もいることを考えると、東大当局としては必要な人には支援を行き渡らせられているとみなしていると思います*11

一方で、北米のトップ校の博士課程では、学費と生活費を合わせた「Stipend」と呼ばれる給与が全員に支払われます。Stipendはその土地の物価を考慮し、最低限の生活費を保障できるよう決定されています。以下のサイトに、アメリカの各大学のStipendと都市の物価を比較した表が掲載されています。

csstipendrankings.org

このStipendですが、アメリカの場合基本的には指導教員の獲ってきた予算から支払われます。このため、学生の側が自由にテーマを設定できないことも多く、また教授とのそりが合わなかった場合には解雇のリスクもあります。このような権力勾配が、セクハラやパワハラの温床になっているという指摘も一部で聞きました。もちろん、これは教授の予算の自由度や人柄に大いに依存しており、例えば企業からの寄付金は使途が限定されていないことも多いため、そのような予算の多い研究室は学生が自由にテーマを設定できる場合が多いと思います。

カナダの場合は専攻が規定年数分のStipendを保証してくれるため、比較的自由が担保されています。ただ、規定年数を超えると指導教員の予算から支払われるため、教授とそりが合わなくなった学生が新しい指導教員を探すのに苦労している様子も耳にしました。

カナダのCS系大学院については、以下の記事が分かりやすいです!

yongyuanxi.medium.com

このStipendを上回る給料をもらいたい場合、学生は以下の選択肢を取れます。

  1. インターンに行く
  2. 学科のAwardに応募する
  3. 外部の奨学金に応募する
  4. 教授の予算から給料を増やしてもらう(教授の予算が潤沢な場合)
  5. TAをする

CSの応用研究の場合、1は月に100万円以上を稼げるようなポジションが多く、毎年夏になると多くの学生がインターンに行っています。2については、学内でトップ数%が授与されるAwardが設定されています。印象的なのは、東大などで授与される同等の賞(研究科長賞、優秀〇〇論文賞など)はメダルや賞状のみの授与なのに対し、北米では年に100万円以上の追加給が得られるという点です。3は日本からも応募は可能ですが、教授の強固なコネが必要だったり、北米や中国の最上位層の業績と戦う必要があったりするなど、難しいかもしれません。

日本のシステムの話に戻ると、日本では指導教員の予算から独立して自分の給与を得られる方法が多いと捉えることもできます。基本的に指導教員は学生の給料を支払っていないですし、学生があくまで自分の卒業のために頑張るという建付けなので、教授からの圧を受けづらいとも言えます*12。私の研究室はHCIや無線給電が主流の研究テーマでしたが、自分の給与を自分で獲得した研究費で支払っていたため、安心してコンピュータグラフィックスに突っ込むことができました*13

また、一部のアメリカの政府系予算は進捗管理が厳しく、教授が毎月報告書の作成に追われ、学生も進捗報告のために駆り出されたりといったことがあるようです。一方で、日本の政府系の若手向け予算は進捗管理については比較的寛容で、例え元の研究提案から大幅なテーマ変更が生じても、最終的に成果が出ていれば許してくれる傾向にあると思います*14。このため、北米と比較すると、自由に研究ができる土壌はあるのではないかと思います*15

研究室の運営と研究者のキャリアパス

研究室の運営方針は、日本・北米ともにあまりに多様すぎて、決まったことを言うのは難しいかもしれません。しかし、特に構成員の教育について、少しだけ傾向はあるように思います。

日本では、研究室に配属されたB4やM1の教育が最重要視されている場合が多いと思います。私の所属していた電気系では、研究室配属で人気の研究室は大体教育が手厚く、逆に教育が手厚くない研究室は「放置系研究室」と呼ばれて避けられていました。

私が所属していた川原研究室も、この教育が手厚い研究室として知られていたと思います。川原研では、学部生に先輩のメンターがつき、プレゼンの仕方、論文の書き方、図表の作り方を教えます。実際に、B4やM1から成果を出してACM系のフルペーパーを発表している人もおり、学内の卒論や修論審査では毎年欠かさず受賞者を輩出していました。このように、教育を手厚くする→早くから成果を出す→面白い研究をしているラボとして学部生に知られる→優秀な学部生を獲得するという正のフィードバックループを作ることが、日本のラボ運営では求められていると思います。私自身もこの仕組みに育てていただきましたし、研究室全体のレベル底上げなど、この仕組みの良い点もあると思います。

一方で、北米でB4・M1への教育が中心に運営されているラボは見たことがありません。これには複数の理由があると思います。まず、北米では博士から他の大学に移ることが普通なため、学内でのプレゼンスを上げるより、有名な学会で発表して学界の中で知ってもらう方が、優秀な学生の獲得に効果的です。このため、最初の論文を出すまでに時間がかかっても良いから、トップ会議で継続して論文発表ができる研究者になることが求められていると思います。博士課程も5年あるので、「助走を長くとって高く跳ぶ」といった具合で、最初の数年は授業を取ったり基礎を身につけたりすることに集中して、最後の数年で一気にスパートをかける人が多い気がします。

また、(鶏と卵のようですが)大学院生はある程度の研究経験がある状態で入ってくるため、ベースのスキルが身についています。北米では、学部生は基本的に卒論を書かなくても卒業できるのですが、意欲ある学部生が研究室に出入りし、他の博士課程の下について修行をしていることが多いです。この中で、さらに意欲のある学部生が勝手に成果を出し、論文が出来上がります。博士学生の側も、デキる学部生を育てれば履歴書に書けるので、指導に熱が入ります。

このような意欲ある学部生が湧いて出てくる背景には、博士課程を卒業した後のキャリアパスが明確なことがあると思います。CS系の就職はその年の景気に大きく左右され、ビッグテックは博士号を持った学生しか取らないという年もあるので、景気の「雨宿り」をするために博士を志望する学生もいます。また、基本的に博士卒は入社時に高いランクからスタートできるので、博士で5年を費やした方が生涯年収が上がるというのが多くの人の認識だと思います*16。5年を超えて課程に在籍する人も普通で、30代半ばで学生をしている人もたくさんいます。

北米では、博士は日本で言う医師や弁護士と同等の社会的評価のある資格とみなされているように感じます*17。私が驚いたのは、トロントSIMカードを買いに携帯ショップへ行ったときに、店員に「大学院で研究をしている」と伝えたところ、「それはcoolだね!俺たちが生活できているのは研究者のおかげだから、感謝しているよ」と言われたことでした。お世辞とは言え、市井の人に研究者や大学院の意義が伝わっていることは、非常に良い環境だと感じました。

また、新任の助教*18は、大学の各所から歓迎されます。トロント大学の場合、全ての階のエレベーターホールに設置されたモニターに「Welcome to UofT」と顔写真付きで表示されます。また、新任助教授の面接のプレゼンは一般の学生も見ることができ、学生は自分の数年後の姿をイメージしやすいと思います。このように、アカデミアに残った場合にどのようなキャリアパスを描けるのかを、直属の先輩以外から学べる仕掛けがある点も、日本との違いだと思います。

新任の助教授を歓迎するウェブページもあります↓

www.artsci.utoronto.ca

 

研究室や学生の雰囲気

研究室や学生の雰囲気についても、研究室の間に差がありすぎて、決まったことを言うのは難しいように思います。

しいて言えば、東大の場合は特に、公式のパーティやイベントなど、異なるバックグラウンドの者同士の交流を促進するような仕掛けが少ないように感じます。工学系研究科の場合、学部から東大にいる人たちは非常に似通った属性の人が多く(進学校からそのまま東大に来ている男性*19)、留学生や他大からの入学者などを受け入れるコミュニティが十分に育っていないように思います。特に、日本語と英語のどちらも第一言語ではない学生とのコミュニケーションには、個人的には難しさを感じています。

研究のレベルに関しては、CSに限れば、東大のトップ層の教授は世界のトップ大学の教授とも互角だと思います。私の分野では、五十嵐健夫先生梅谷信行先生は世界中の研究者に知られていますし、他にもスター教授はたくさんいます。

一方で、私の分野のコンピュータグラフィックスの場合、基礎となる数学やプログラミングの素養を身につけるのは時間がかかりますし、また近年国際会議のハードルもどんどん上がっています。このため、学部や修士で卒業してしまう人が論文を一人前に書けるようになるのが難しい分野になってきてしまっているようにも感じます。先ほども述べたように、「助走を長く取った人が高く跳ぶ」ような分野になっていると思います。

とはいえ、HCIやロボティクスなど、CSで日本の大学が戦えている分野はまだまだたくさんあります。私もグラフィックス研究者として、日本人の界隈を盛り上げられるよう善処していきたいです。

おわりに

日本も北米も、それぞれに良さがあり、また悪さがあります。私は北米の大学院の方が今の自分に合っていると感じ転学を決めましたが、どちらが上ということはないと思います。私自身、育てていただいた日本の環境には感謝していますし、今後恩返しができるよう研究に精進していきたいと思います。

何か知りたいことや相談したいことがあれば、お気軽に yn.devilstick@gmail.com までご連絡ください!

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

*1:https://www.t.u-tokyo.ac.jp/hubfs/47_J.pdf

*2:何度も言いますが、学科によって選抜は異なると思います

*3:全員、その後研究で大活躍されています。

*4:https://www.youtube.com/watch?v=YPoymWLNjVk 隠れたバイアス組織に与える負の影響を論じた動画

*5:いわゆる「伸びしろ」ですね

*6:日本人のPhD進学者で、10校応募した内8-9校に受かったという方は多いですが、あれは本人が極めて優秀だからです!普通そのくらい受かるものだと信じてはいけません

*7:我らがトロント大学は、複数の教授が企業のポストも持っているためにランキングに業績が反映されず、実態よりもランキングが低くなっているようです

*8:

https://www2.mech.t.u-tokyo.ac.jp/wp-content/uploads/2023/05/6-GMSI%E7%B4%B9%E4%BB%8B%E8%B3%87%E6%96%99.pdf P3参照

*9:私はDC2とACT-Xにご支援いただいておりました

*10:東大では部局卓越RAという制度により、研究費とは別に給与を受給可能

*11:自分には支援が行き渡っていない!という博士課程の方がいれば、おそらく当局は知りたがっていると思います。ぜひ通報しましょう

*12:一方でセクハラやパワハラは日本のアカデミアでも数多く発生しており、別の根深い問題があるのでしょう

*13:もちろん、指導教員の川原先生に許していただけたという側面は大きく、大変感謝しております。

*14:私もJST ACT-Xの研究提案と最終報告書はずいぶんかけ離れたものになってしまいましたが、良い評価をいただけて感謝しております。

*15:もちろん、競争的資金がそもそも獲得しづらい分野もあり、そういった分野では事情が違うと思います

*16:なぜそんなに博士が優遇されているのか?というのも非常に面白いテーマなので、また機会のある時に考察してみようと思います

*17:実際、医師や弁護士になるためには、学部を卒業した後に数年間のスクールに通う必要があり、博士号を取るプロセスと大差ないというのはあると思います

*18:北米の助教授 (Assistant Professor) は、日本の助教と違い、独立して研究室を主宰します

*19:私もこの属性なので何か言える立場にはありませんが…